歪んだ見方⇒焦り⇒怒りへ

早咲きの桜や菜の花が、春の訪れを感じさせますね🌸

こんにちは!

生きる力をつける学び舎かっこうの甲田淑恵です😊

 

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自分にマルが付けられない方へ

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どんな自分にも〇(マル)をつけるだなんて、そんなこと出来ない。

ちょっと頭のネジが外れていそうな(?)甲田さんだからできるんだ、なんて思っている方いませんか?

 

わたしも以前はそうでした。人がうらやましかったり、意味もなく誰かに負けている感覚を持っていたり。何となく劣等感があって、恥ずかしくって、自分に自信がなく生きていました。

 

でも、

 

【どんな自分でもマルしてあげる】を続けていたら、

 

自然にコンプレックスはなくなっていました。

 

 

料理が下手くそでも?極度のあがり症でも?そのせいで面接に100回落ちても?生まれてこのかた賞状とやらを1枚ももらったことがなくても?テストでいつも0点でも?なんの特技もなくても?男みたいにごつい指でも?

 

はい、なんでもです。なんでもマルしてしまう。

「それがわたし。よし。」ということにするんです。

 

・・・思えない。そんなこと、やっぱり思えない。

最初はそう思います。わたしも、思えないことがたくさんありました。

ほらね、こういうポジティブに考えられないところが良くないの・・・

こんなネガティブな自分にマルなんてできない。

 

ううん、ネガティブでも「それがわたし。よし。」にするんです。

なんでもマルをつけとくんです。

 

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歪んだように見える

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あるとき、気付いたんですね。

「あ、自分の偏見やコンプレックスのせいで、見えている世界が歪んで見えてるのか!」って。身体を傾けて風景を見ていると、全部傾いて見えるのと同じこと。正しい姿が見えなくなってしまうんですよね。

 

例えば、英語ができなくて格好悪い(と思う)自分にコンプレックスを抱えていたとしましょう。すると、英語に興味を示さない自分の子にまでコンプレックスを持つようになるんです。「ほら英語できないと困るから!やらなきゃだめ!ねえ、しっかりカードで練習しなさいよ!(わたしみたいにかっこ悪くなるから!)」ってね。

 

そうして、子どもと自分を重ねてしまいます。

しかも、歪んだ見え方のまんま。

 

英語に興味を示さない、というたった1つの事実が、コンプレックスのせいで「これは困った!」「そんなの許さない」に変わってしまうって、よく考えてみると恐ろしくないですか?

 

その歪んだ見方・偏見・コンプレックスが強ければ強いだけ、「焦り」というやつが出てきます。ときに「焦り」が「怒り」に変わることだってあるでしょう。

 

ということで

 

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【‘かわいそうな自分’は子どもを見る目を歪ませる】

【‘かわいそうな自分’を捨てると‘我が子がかわいそう’ではなくなる】

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