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「かわいそう」と言われた日
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昨日のブログでお話した通り、長女は感情を言葉で表現するのがかなり苦手な子です。子どもの発達について学んだことがある方は、ピンと来るかもしれません。わたしは医者ではありませんし、勘違いされるのも困るので明言は避けますが、娘はある発達障害のいくつかの特徴を持っています。(というか、本来すべての人間が何かのグレーゾーンだと言えますから、そんなに大げさに発表するほどのものでもありません。)
でも、1つ言えるのは、わたしがこのような職種でなければ、もっともっと手に負えない子だっただろうと思える、とても難しい子です。
ある日、このことを知り合いのお母さんに話したことがありました。すると、そのお母さんが眉をハの字にして、
「そんな~!発達障害だなんて決めつけたらかわいそうだよ。〇〇ちゃんは、普通の子だよ、大丈夫だって!そんな、決めつけたら、伸びるものも伸びないよ!」と。
違和感が2つ。
1つ目は、わたしは一言も発達障害だと断定したとは言っていないのに、過剰に反応されて心配されていること。
2つ目は、発達障害をかわいそうだと言っていることの方がかわいそうだよ、ということ。
(このお母さんは、本当に心配してくれたのだと思いますが、同時に発達障害への偏見も見え隠れしたことに悲しみと憤りを覚えました)
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受け入れると言うけれど
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巷(ちまた)に溢れる教育情報誌・子育て雑誌・ネット記事なんかを読めば、すぐに例の言葉に出会うはずです。また、自己啓発本なんかに漏れなく書かれているキーワードがこれ。「受け入れる」。
でも「受け入れる」って何なのか、本気で考えたことありますか?
「受け入れる」ってどういうこと?って聞かれたらどう答えますか?
わたしは、こう解釈しています。
【「受け入れる」とは「自分の偏見を捨てること」だ】と。
発達障害を偏見の目で見ている人には、知り合いの子が発達障害に近いグレーゾーンであることさえ「受け入れる」ことができないのです。発達障害が、あたかも悪いことであり、それは劣性であり、悲しい事実なのだと捉えていたら「受け入れる」ことが難しくなります。言い換えれば、「発達障害はかわいそうなものだ」という偏見が、事実を飲み込むことや、子どもへの有益な対処から、遠ざけてしまうのです。
「こうあるべきだ」「これが正解だ」「うちの子がそうあるはずがない」などという決めつけ。それらが、すべて偏見になり得ます。
そして偏見は、拒絶や逃避を生みます。
認めない親や、子どもが苦しんでいるのに平気そうにしている親が、これにあたると考えています。その結果、苦しむのは子どもです。
自分のありのままを、心根から認めてもらえない親のもとで生きるのって、どれだけ辛いことでしょう。
「受け入れてあげたい」とか「受け入れるって大事よね」「わかってあげてるつもりよ」などと口では簡単に言えますが、場合によっては「受け入れる」って、そんなに簡単ではなかったりします。
だって、親自身が長年信じてきたNGポイントをガサッと焼却処分しなくてはいけない作業だからです。NGをOKするって、そんなにすんなり出来ることではないですよ。
だから「子どものありのままを受け入れる」ことの中には、身を切られるほどの痛みを感じても、何ら不思議ではないことだってあると思います。
つづく