度合いの差でしかない

 

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度合いの問題

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昨日の記事では、かなり踏み込んだところまでお話したつもりです。あの記事を読むと、それだけで責められているような気分になる方も、もしかしたらいらっしゃることでしょう。(責めているつもりはありません)

そのくらい、核心にせまることをお話してきています。子どもと、その幸せを願う親のために、です。

 

今まで信じてきた、そして努力してきたことが子どもにとっては不適切な養育(マルトリートメント)だと知ったら。口で言うほど容易に受け入れられるものではありません。子育て理論や仕組みを理解するのとは、わけが違います。

セミナーや色んな母親との会話から思う、決定的な違い。それは、「なるほど、そういうことか」とわかった後に表れます。自分が情熱を注いできた物事であればあるほど、そこにあった信念をひっくり返されることほどダメージを受けるものはありません。

 

突拍子もない例えですが、仮に科学的に論証された「母乳で育てると子どもが弱い身体に育つ」という新情報が出回ったとしましょう。待ちに待った我が子、でも生まれてみたらなかなか母乳が出ずに病院に通い続け、母乳育児のために半年も頑張り続けたお母さんは、このニュースを見てどう思うでしょうか?

「そんなはずはない」と今までの自分を信じ、守りたくなりませんか?いくら正当な論理がそこにあったとしても、今までしてきた血のにじむような努力が水の泡だなんて、信じたくない、受け入れたくない、そう思うのではないでしょうか?そしてそうなったとき、そのお母さんは何をするでしょうか。

 

今日も、母乳を飲ませるかも・・・と思いませんか。

 

どんなに周りに忠告されても、いくら科学的なデータを見ても、過去の自分にすがりたくなってしまう生き物なのです。

 

‘受け入れて変わっていく’って、本当にエネルギーと痛みを伴う作業なんですよ。

 

涙を流しながら、過去の自分を恨んだり責めたりしながら、ポットの前に立ち、震える手で哺乳瓶を握りしめてミルクを作るって、きついんです。だけど、それが子どものためだとしたら。

 

やるか、やらないか。

 

自分を守るか、子どもを守るか。

 

そういう厳しい決断を迫られるんですね。だから、子育てってきついんですよね。けれど、そこが大きな分かれ道です。言い訳して自分を守り続ければ、今までより良いことは起こらない。その余波は、全部子どもが受けることになります。

 

小4の娘さんを虐待死させたお父さん、きつかったと思いますよ。

事実を受け入れられなかったんでしょう、きっと。今までの自分と、目の前の子どもと、それから恐らく、子どもの頃の自分の姿が重なって、どうにもこうにもいかなくなっていたのではないでしょうか。

 

小4の女の子が受けたダメージと同等の悩みや葛藤を、父親も持っていたに違いないとわたしは思います。残虐な父親を擁護するわけではありません。でも、わたしは非難もしません。父親も母親も、辛かっただろうと思う。救える人がいなかったことが、残念でなりません。

 

虐待もマルトリートメントも「自分の育て方が不適切だったと受け入れられるかどうかが鍵」という点でみれば、度合いの差でしかないということを、わかっていただけたでしょうか。

 

(今日は「母乳で育てると弱い身体に育つ」なんて、とんでもないフィクションで例を挙げましたが、できるだけ身近で、かつ「ありえない」「受け入れたくない」感情をリアルに想像できるように、そんなウソを書きました。)