感動は自分でしか作れない

 

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物事に対してベクトルを

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長縄大会に向かっていく。

マラソン大会に、音楽発表会に、運動会に、向かっていく。

普段の授業に、宿題に、ピアノの練習に、向かっていく。

 

物事すべてに対して、自分からベクトルを向ける(心の矢印を自分発信で出す)ことでしか、感動は生まれません。「やらされている」感のなかでは、どうやったって本人が感動することはできないんです。感動することが出来なければ、人は「生きている心地」がしません。何者かに操作されているような、自分以外の大きな力で支配されているような、身動きの取りづらい感覚に追い込まれます。

 

ー被虐待児に通じる「生きている」ことがわからないという感覚です。

 

昨今「SNSの中だけ本当の自分でいられる」と語る子や、「いいね」のために過激な動画をUPする子、またゲームにしか没頭できない子の話などを見聞きするようになりましたが、これは看過できない現象だなぁ~とつくづく思うわけです。いかに現実世界で自分の心が生かしきれてないんだろう、と。

 

「なんでぼく、長縄なんてやらされてるんだろう、わからないけど、大人はやってほしいらしい」・・・ここに、強い意欲もなければ、逆に強い拒否感もないのがお分かりいただけますか?そう、ただスイッチを押されたロボットのように、感情を忘れ、大人の言うことを聞く‘いい子’・・・

 

わたしには、もう本当に危機として感じられます。

 

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「やらされている」感

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じゃあ、「やらされてる」感って、どういうときに作られるの?ですよね。これは、もう答えが出ています。「やらされている」感は、本人の意思・感情がないまま物事が進んでしまうときに生まれます。

 

向こうからベクトルが飛んでくる、という感じでしょうか。

それって、ストレスですよね。急にお願いされた挨拶、じゃんけんで負けてリーダーになる、街中で突然お肌チェック!!(笑)嫌ですよね。

 

それなら、子どもたちの生活はどうでしょう?学校で、家庭で、「やっている」のでしょうか。「やらされている」のでしょうか。

お子さんの感覚は、毎日どちらに傾いていると思いますか??

 

・物事にベクトルを向けて、自分の感情のもとにやっている。

・物事からベクトルが飛んできて、自分の感情は疎外されたままやらされている。