生きているようで死んでいる

 

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無表情の長縄練習

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被虐待児が持つ「生きている」がわからないという感覚は、決して特別なことではないと思います。というのも、「生きている」実感がないまま「生かされている」ような子どもが、たくさん、たくさんいるからです。ごくごく一般的な健康そうな子どもでも。

 

このブログに、何度も登場している危ないワード。

「わかんない」「どっちでもいい」「別に」「無理」・・・こんな言葉の裏に、「生きている感覚のなさ」が見え隠れします。自分が生きているのではなくて、何者かによって生かされている、そんな感覚のもとで日々を送る子どもは珍しくありません。

 

あるクラスを受け持ったときのこと。長縄大会への練習に、どうも熱が入りませんでした。長縄だけでなく、どんなことにも夢中にならないクラスでした。記録更新しても、無表情。「え?」とこちらが戸惑うほどに、どうだっていいような顔をしていました。負けて悔しがることもなく、勝って飛び上がることもない。あと何日だよ!と焦らせても、なんのその。

 

無反応・無表情なのは、なぜだと思いますか。

 

それは、無感情だからです。

 

感情が生きていないから、痛くもかゆくも、なーんともない。

 

自分が物事に向かっていないとき、それは思い出にも記憶にも残らないんです。だって、記憶って感動でできているものだから。

 

もしもお子さんに気持ちを問うたとき、答えられなかったり無表情だったりするなら、それは「気持ちを言うのが苦手なんです」とか「表現が下手くそで」というレベルのものではないかもしれません。もっともっと奥深く、自分の気持ちが自分でもわからない状態にまでなっていることを疑ってみてください。

(※もともと感情に気付くのが苦手な場合もあります。でも、それならばさらに注意深いかかわりが必要です。)

 

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被虐待児と重ね合わせて

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もう一度繰り返します。

 

「感情が生きていないから、思い出にも記憶にも残らない」

 

さて、被虐待児はどうだったでしょうか。

これと同じことが言えると思いませんか?

感情が生きていないから、思い出にも記憶にも残らない。生きている感じがわからないから、死ぬってこともわからない ――

 

「生きている心地がしない」とは、自分の人生なのに自分の足で歩んでいる感じがしないことを意味します。長縄が跳べるようになりたいと思っていない、別にそんなのどうだっていい、やらされてるから仕方なくやってるだけだ・・・。子ども本人の感情がどこかへ放り出され、子ども自身にすら思いがつかめない。

 

親「ねえ、今日どうだった?」

子「わかんなーい」

親「やってみて、どんな気もちがしたの?」

子「べつにー」

親「初めてだったんでしょう?」

子「フツーだよ」

 

こんな会話、ありふれたものだと思うでしょう?

でも、ここに「オレ、生きてる感じが全然しないんだよ」「わたしね、生きてるってなんだかわからないけど、とにかく大人が求めることをこなしてあげてるの」という子どもからのメッセージが隠れているのかもしれないのです。