「そりゃそうでしょ」
「そんなの、みんなわかってるわよ」
・・と、聞いてちょっと考えればわかるような
そんな言葉があります。
相田みつをさんの
「しあわせは自分の心が決める」
とか、そういった類の言葉です。
言葉じゃなくて
考え方でもいいです。
24時間テレビで激闘を見せてくれた
みやぞん さんの
「プラッチコウ(プラス思考)」とか。
みんな、考えてみれば「そりゃそうだ」って
思える、ごくごく素朴なものです。
でもね、わたしは
だからって薄っぺらいのとは
違うと思うんですよ。
そんな当たり前のようなことを
自分なりの言葉にできて
しかも実践できているか?ってことが
肝心だと思うんです。
「そりゃそうだ」と言い
「だれでも分かることでしょうよ」
「ありきたりのタイトル本だな」
と軽く見ている限り
その人の行動レベルまで
その大事な言葉、考え方は
いつまでも浸透していきません。
人の心に沁み込みやすい
シンプルなものこそ
自分のモノにできるか?
それとも
頭の上をかすめるだけで終わるのか?
に分かれるのだと、
わたしはそう感じています。
ところでわたしは
「生きる力」を育てることを
コンセプトにした教室をやっています。
だから「生きる」を考え続けています。
そうすると
人間の心理や
心のはたらきに目を向けることが
おのずと増えてくるので
「ああ~なるほど、そういうことか」
「これとこれの原理は同じだ」
「〇〇とは、何々である」
というような自分なりの言葉で
簡潔にまとめることが多くなります。
自分のモノにする瞬間です。
言うなれば
噛んで噛んで(考えたり研究したりして)
飲み込んで(それと実践を組み合わせて)
消化しきる(自分の言葉でモノにする)
という作業です。
わたしは今までに
「他人事じゃなくて自分事にしてみる」
「‘ど’から始まる言葉で会話してみる」
「自立した子にするために自立親であれ」
などをご紹介してきましたが
そういったわたしなりのメソッドは
かっこうの指導の根幹をなしています。
話は逸れますが
身一つで行うものには
ごまかしが利きません。
わたしは学生時代、陸上競技で短距離走に
熱中してきたのでよくわかります。
身一つで走るとき
道具になるのは自分の身体とメンタルだけです。
己(おのれ)以外、使えるものがありません。
教える、というのも同じだと思っています。
身一つで子どもと向き合うとき
そこには己しか道具がないのです。
ごまかそうとしても
ごまかしが利かない、
素っ裸の自分がいるだけです。
だから、自分の血や肉になるまで
細胞のひとつひとつに染みわたるまで
研究と実践を繰り返します。
素っ裸の大人が
身一つで
リアルに本音で語ることしか
子どもたちは耳を貸しません。
いくらかっこいいことを言おうが
3時間かけて理想を語ろうが
その人自身の身体から湧き上がる言葉でないと
心に届かないのです。
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ちょっと長くなったので
続きは明日にします・・・
実は自分でも驚くことが
ここ最近起きるようになってきました。
かっこうに通われている方や
ご興味のある方には
特に意味のある記事になるかと思います。