ある子の説明文のテストが
100点だったとしましょう。
でも
芳香剤のフィルムの開け方も
分からなかったら?
イラストで裏面に描いてあるのに
「どこ見ればわかるかな?」なんてことも
考えなかったら?
説明があることの良さを知らないまま
「ママ~!これ開けられなーい!」って
なんにも考えないで叫ぶような子だったら?
その子の
説明文のテストが100点な意味は
どこにあるんでしょう。
だから、関係ありません。
学校の勉強ができるのと
かしこいのとは違います。
仮に
説明文のテストが30点でも
授業中に鼻くそほじってても
ガム噛んで宿題やってても
庭で花火をするために
パッケージを読んで
準備をととのえられるのなら
それが「かしこさ」。
ちゃんと説明を読んでるじゃないですか。
母親が「洗剤がないわね」とつぶやいたのを
ちゃんと覚えていて
いつもの洗剤が1番安い店を広告で探せたら
それが「かしこさ」。
誰かを助けようとしてるじゃないですか。
広告の情報を読解できてるじゃないですか。
だから
学校の勉強の出来・不出来に
そこまで縛られる必要ないじゃん!って
言いたいんです。
もっと、
子どものいつもの実生活に目を向けて
テストの点に翻弄されないでほしいんです。
学校の先生は
第一義的に
学校の勉強内容を教えるための存在
確かな学力の定着を目的とした存在であって
子どもの将来のすべてを想って
教育しているわけではありません。
(そういう先生も
なかにはいらっしゃるかも知れませんが
1年間で関係のなくなる相手。
どうしても限界があります。
これについては、また追ってブログに
しますね)
もう一度言います。
勉強ができるのと
かしこいのは違います。
勉強ができることが武器となり得るのは
たかだか大学受験まででしょう。
その後の人生の
どのシーンでベクトルを使うんですか?
どのシーンで世界第5位に長い河川を
聞かれるんですか?
だから、
わたしたち親世代も含めてほとんどの人が
「これなんの役に立つの?」
って思いながら
学校生活を送ってきてるでしょ?
役に立たないって思っていることを
必死でこらえて飲み込んで、
誰かから良い評価をもらいたいとか
自己満足や優越感に浸りたいとか
そんなものを原動力にしてやるしかない。
もしそこで
標準的な学校のお勉強に染まって
素直にやれてしまう子であれば
よく勉強できるっていうだけのことです。
なかば奇跡です(笑)
勉強を優先し
大学入試まで保証された子
にしたいのか?
それとも
かしこさを育て
人生すべてに生きる力をプレゼント
したいのか?
親として
愛のある「かしこい」選択は
どちらでしょう??
つづく