自分の個性を認められてこそ

      

 

みんなに合わせると安心だったり

普通でいることを求めたりすることが

実は、一人ひとりの個性のつぼみを摘み取る。

 

 

その結果

 

 

自分の個性や自由も認められないのなら

相手の個性や自由も認めてやるもんか、と

互いに意地っ張りの人間関係になる。

 

異質を嫌い、

外れているものを除外し、

逸脱したものを抹殺しようとし、

突飛なものはあやしがり、

特殊なものを警戒し、

個性的なものに否定的になり、

自由に生きる人をうとましく感じる。

 

 

こんなの、協調とはかけ離れていますよね。

 

 

 

 

本当の協調っていうのは、

 

 

自分も違うし、あなたも違う。

 

みんなバラバラだけど合わせていく。

 

ってことじゃないですか?

 

 

 

 

 

 

みんな合わせるのではなく

 

みんな合わせるんです。

 

自分もみんなも気持ちがいいから。

 

 

 

 

 

バラバラのみんなと

 

その誰とも違う自分が合わせる。

 

それが協調ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

これを、一度集団意識に染まってから、

「さあ君の個性を爆発させてくれ」と言ったところで「はい、待ってました!」と発揮できるものではないでしょう。

 

繰り返しますが、

いったんできてしまった心のフタを外すのは

簡単なことではありません。

 

本当は嫌だったことを

ありありと自分に見せつけることになるのですから。

 

だったら、知らんぷりして通り過ぎるほうがラクです。

 

だから、感じないふりをして生きていく。

 

(本当は、わたしだって、おれだって・・・)

って思うより

(わたしなんか、おれなんかこんなもんだ)

って納得させて生きちゃったほうがラクなんです。

 

だから、より一層無意識に、

自分の色を出すよりも周りに染まるようになります。

 

 

 

 

かのテレビ番組でやっていました。

 

本ほど、ランキングが好きな国はないそうです。

ランキングは、「みんな」や「普通」を知るには

うってつけですものね。

 

粧水の適量がパッケージに表示されているのも

海外では珍しいそうですよね。

自分がつけたいだけ、つければいい。

 

「きまり」も「みんな」も「普通」も「らしさ」も

なにも気にしないで。

ただ、自分の本音に正直になってみればいいって。

 

 

余計なことして、子どもの個性を潰したくないな、って

わたしはつくづくそう思います。

 

 

つづく