周りの「みんな」や、
あなたの住んでいる世界の「普通」が
ちゃんとした判断基準になるかと言えば
そうではない。
もしも、あなたが
アマゾンの森の奥に住む民族だとしたら、
耳たぶに動物の牙を刺しておくのが「普通」であり
「みんな」が幼虫を食べるなら安心かも
しれないのだから。
とすると
あなたやあなたのお子さんが
「みんな」と同じで「普通」かどうかなんて
他の集団と比較しないとわからないし
正しいかどうかを
ごくわずかな周りの人間に合わせたからと言って
永遠に続く安心材料にはなりません。
そして
それよりも問題なのは
「みんな」を基準にするとは
自分を殺すことである、ということ。
自分の素直な感情をよそに、
せまい世界の「普通」を求める。
自分よりも「みんな」に合わせることを優先する。
それって、自分の本能的な感性に
どんどんフタをしてしまうのと同じです。
そうやって
「みんなに合わせる」とか「普通にしておく」といったルールが子どもにのしかかれば、それが生きていくための大きな優先事項なんだと認識するでしょう。
一番大事なのは、そうか。
ぼくが感じたことじゃないのか。
わたしのしたいことではないのか。
「みんな」なんだ。「普通」なんだ。
そうしておくしかないんだ。
自分を表現するって、良くないんだ。
自分をそのまま出すの、我慢した方がいいんだ。
だって、
お母さんが、先生が、
そうしておけって言ってるもんね、と。
子どもは、あなたの思っているよりずっと
大人に従順な生き物です。
だから、わたしは
「みんな」を意識すると、まずなくなるのは
「自分の感性」だと言っています。
さらに言うと、「自分の感性」を失うということは
同時に「自己肯定感」もなくすということでもあります
(明日は、感性を失ったあとは個性が消えていく。
そんなお話をしていきます。)
つづく