見えない縛り・2

 

いま教壇に立つ先生から聞いた話も含め、だいたい小学校3年生ころから周りの目が気になり始めると、子どもたちは一層ありのままの自分の姿を隠すようになるようです。

ちょっとわからないと黙り込むし、誰も最初の一言を言わないとか、先生の表情を伺うとか。大多数を正解だと見なすことも多くなります。間違ってるのに気づいても「おなじでーす!」と声をそろえたり、納得いかないけど流されておいたり。突出する個性を異質とみなすなど…

 

だって、

そのままの自分を出してもいいことない

ってインプットしちゃってるから。

 

 

教員時代、大嫌いな空気でした(笑)

「きょうしつはまちがうところだ」っていう詩があるんですが、5年生にそれを読んだら、なんていうか…みんな、(え?そうなの?)みたいな顔してました。

 

 

海外の子どもとは、きっとかけ離れた姿が日本の教室では見られるんじゃないでしょうか。

自己表現力だとかプレゼン力といった、世界における日本人の弱さは、小さいころから始まってしまうんですよ、悲しいですね。

 

新学習指導要領には、個性尊重だとか一人一人の主体的な学びを目指して…といった文言が組み込まれていて、以前の教育現場よりは進化している?の?か?な?って感じですが、まだまだでしょう。

 

だって、ほとんど1日中イスに座って先生が前に立って授業を「受けている」スタイルだもん(笑)

授業は受けるもんじゃないですから!

 

 

 

やっぱり学校教育の限界はあるって、こんなところからも感じるわたしなのです。

 

で、わたしが思うのは・・・

 

 

だったら、あるものをなくしてしまえばいい!

あるものが、子どもの自由な学びを邪魔している!

 

 

そう思っていまして、、、

 

実際にわたしの教室「かっこう」では、この「あるもの」を取っ払って指導しています。

すると、子どもが主体的に学んでくれてる!!って、すごく実感できるんです。

 

考えてみてください。

いったい、子どもを邪魔する(親もそれに無意識に牛耳られている)あるものって何だと思いますか?