悪質タックルをすることになってしまった宮川選手。
まるで、第二次世界大戦の特攻隊のごとく、我が身を投げ打って敵に突っ込んでいったように見えました。
監督は、あまりにも「勝利」に取り憑かれた魔物になってしまったのでしょう。
様々な見方ができる、今回の出来事。
教育的な見地からはどんなことが言えるでしょうか?
わたしがお話したいテーマは、次の2点。
➀勝ち負けへのとらわれ
➁権力を考える
➀教育で言うところの勝ち負けと言えば、パッと受験が思い浮かびます。まだまだ偏差値偏重の日本では、学力がある/ないが、すなわち勝ち負けを意味してしまうでしょう。
勝つって気持ちいいですよね~。
でも、その魅力や快感に取り憑かれると大切なものを失うってことを、忘れないでいたいものです。
世界的に教育面で後れをとる日本。単にいい学校に行けば勝ち、いい会社に就職できれば勝ち、親子で鼻高々!という感覚を、どこまでなくしていけるかです。
だって、それよりもっと大切なものを、ちゃ~んと守りたいでしょ。いい学校やいい会社に属すのが勝ちなんじゃなくて。
どこに属したとしても、
1人の人間として「そのあと何をするか」
によって真価が問われる
と思うのです。
スポーツでも教育でも同じ。勝ち負けにとらわれ過ぎて、いくつもの大切なものをポトリ、またポトリと落とさないようにしたいですね。
子どもの身近な監督として、
親がまず、勝ち組モンスターにならないよう
気を付けたいものです。
➁もし、あなたのお子さんが宮川選手だったら?
「お前はなんてことしたんだ!」と言いますか?
「かわいそうに、つらかったね」と言いますか?
わたしは、この問題が起きて、世間が「なぜ大学生にこんなことさせたのか!」「この大学はどうなっているんだ」と批判殺到のなか、違う視点での意見も持っていました。
「宮川選手がたとえコマのような扱いを受けていたとしても、タックルをすると決めたのがこの人ならば、責任の所在は、まず宮川選手。どうして人を怪我させる前に何とかできなかったのだろう?」と。
わかるんですよ、宮川選手の置かれた立場も、チームや自らのアメフト人生への影響もわかるんです。計り知れない葛藤と闘っていたのだろうと思います。いわゆるパワハラってやつね。
けれど、「おかしいよ」って思う自分と仲間がいたのであれば、もう少し主張を伝えることはできなかったのだろうか?と思ってしまいました。
わたしの場合は、
人と人はどんな場合でも対等であると信じていて「誰がいちばん偉い」という感覚がありません。
なぜだかわかりませんが、幼いころから貫いている信念です。
だから年齢だけで判断することもありませんし、子どもに「この人は偉い人だよ」という説明をしないようにしています。(逆に「世の中に偉い人なんていない!もしいるとしたら、みんな偉いよ」って教えています)
なんていうんでしょう。。「偉い」という言葉を使うだけで、もう何も逆らえない相手のように感じませんか?その人がどんなに間違っていたとしても、従順になるしか他にないような気になりますから。大嫌いな表現。
本来、人はみな平等で対等なはず。
大人でも間違えます。社長だって大統領だって、自分より何かに秀でているのかもしれないけれど、その他の人が負けているわけでもありません。
尊敬すべき人はもちろん沢山います。いつまでも話を聞いていたいような魅力的な人もいます。
でも、
わたしはその方々に対して、敬意は感じても「偉い」とは思わないんです。偉い=社会的に権力がある、という意味にしか感じないんですよね。
だから、そこまで監督の権力に飲み込まれなくてよかったのに、と思ってしまったんです。アメフト社会に蔓延している何かしらの洗脳によって、正しい判断ができなくなっていたのでしょうか。
誰か、本当のことを教えてくれる大人がそばにいなかったものかと悔やまれます。
そして同時に、
幼いうちから「権力」「偉い」という意識について、正しく丁寧に教えていくべきだと思いました。まさか、親が権力を振りかざすことがないように気をつけたいものですね。